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WORLD OF DECEITときめきと幻滅を綴った悲しき妄想
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![]() 妄想男 age:20 趣味:妄想 特技:妄想 職業:妄想 |
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わかりやすい 模型写真が次である。ベトナム兵の塹壕らしいが、英語の読めない僕にはよく理解が出来ない。 まあ、最近の僕の知る事象で言えば、2006年に起こった硫黄島の戦いで日本兵(キャスト)が掘 った塹壕に似ているのではないだろうか。あるいは、クフ王のピラミッド内にあるような重量 軽減の間とよく似た作りの△部分も想起される。 |
紫色のシャツを着た青年は勿論ハンサムな僕ではないが、ここはゲリラ戦が行われたところの 入り口に当たる場所だ。1月のくせに結構暑く、この日は曇りがちでも28度あった。妹がシャム 双生児(頭部結合)であると言う現地人が、小さな隠れ家と思われる穴に下半身を突っ込み、 木製の落し蓋で、上空からの悲壮なまでの攻撃の嵐から身を守ってい |
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る様子が左の写真である。 彼は50円で買える人民帽を被り、300円相当の人民服に身をつつみ、当時の様子を片言ながらに 雄弁に騙ることの出来る30代の壮年であり、足の人差し指には戦時中、母親に抱かれて逃げる 乳飲み子だった時にかすめたと言われる銃痕が今も残っている。 |
次の写真は、彼とその仲間達が、観光案内をする上で1日3回はその身を投じなければならない、 遺跡の穴であり、ゲリラ戦時には1日20人のマスオが釣れたといわれている。大漁を祈願して 今もなお残されている。無論、この人為的な罠は、小麦粉の産出国がそれとともに排した敵兵を もついでに殺戮したとして、今では使用禁止とされている。皮肉だが当然のことだろう。 |
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次の写真は言うまでもなく、地下への階段であり、塹壕の地下一階には当時の現地人が食べ 散らかしたバナナの皮が散乱している。これは、奥へ鳴りを潜めた現地人を追う小麦粉たちが 皮を踏んで転んで泣いてしまうように、仕向けている高度な罠の一端である。当国のバナナの 果樹園では、パーム油が水と一緒に注が |
これは(右)、兵の隠れ場であると同時に、彼らを運び申す馬・羊・象の便所ともなりうべき穴 である。丸い便器はホーローではないものの、我が国でも有名なアルファベット四文字の紋章 が押されている。この中に廃棄された、当時のあらゆる有機物は30年以上も経た今は残って いない。 |
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左の写真で言いたきことはそれ。二人の兵士と、その二人に体を委ね、気分を阿る美しき
慰安婦である。左の兵士の口のにやついていることったらない。「さて、塹壕でたら、
お前を快楽の泉に沈めてや(ry) |
さらに衝撃的瞬間と言うのは次の写真(下下)をいう。カメラを手にした中年女性のジャーナリストが、 今にも戦車のキャタピラに踏み潰されるか、あるいはその振り回す砲身でホームランバッター が変化球をいとも簡単に打ち返されたその0.00001秒前の光景である。しかし、彼女はそんな ことどうでもいいようだ。↓↓↓ |
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<ふんふんふー |
多少真面目になって話を進めると、次の二つの写真は先ほどのバナナの罠とは似つかないが 一応罠である。僕は、考古学の授業で縄文時代の猪狩りの落とし穴を勉強したことがあるが、 猪狩りのときの罠、浅いものには底部(底から棒が突き出ている)があるものの、棒は尖っていず 、猪を殺すのではなく逃がさないためのものであったことを記憶する。今、ここで見たアメ リカ兵用の落とし穴(現地人製作報酬0円=勝利・独立)は、側面から長いくいのような物が 突き出し、明らかに落ちた者を殺傷するための罠であることが窺える。STICKING TRAP(刺す罠)、 WINDOW TRAP(窓型の罠)、下の写真はSEESAW TRAP(シーソートラップ)という。これは |
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アメリカ兵が落とし穴に落ちると太くて長い釘が刺さった板がすごい勢いで
跳ね上がってくるのだ。くいは確実にアメリカ兵の体を貫通することだろう!!
確実に殺すためだろうが、
人間は本当に恐ろしいものを作る。戦争とはそんなものなのか。 |
左の写真は、花火師が火薬を打ち上げ花火の筒に詰めているところである、といっても
あまり違和感を感じない。しかし、実のところを言うと、まぁ言うまでもないことだが、
それは火薬を詰めると言っても花火ではない。戦争にはつき物の砲弾に違いない。次は、
罠で使うくいを金槌で打って作っているに違いない。終戦直前のこれと言った武器を失った
日本の銃後達のように、竹槍だかを削って武器を作っている様をみるのは、苦しいことだ。
次の写真も敵から食らった不発弾を分解して、自分の砲弾・武器として利用しようとしている。
そこまでして、勝利を得たかったのだろうか。 |
![]() | そこにいると危険ですよ ![]() あなたが!! |
次の緑色のドームを頭に持った真っ白い建物は、確か16世紀のサファビー朝のシャージャ
ハーンの妻が別居した時に明の支配下にあったこの地に別荘を建てて、15年ほど暮らした
と言われている建物で、200年間の修道院時代(キリスト教)を経て、今はレストラン&
ブティックとなっている。 |
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